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アメリカ大統領選

いよいよ秒読み段階に入りました。

世界中が金融危機に喘いでいる間にもオバマVSマケインのデッドヒートが展開されています。この二つのニュースを見ていると、前者は現実で、後者はまるで劇中劇のように目に映ります。

ところが後数日で何れかが大統領に就任するや否や、世界恐慌の発端国であるアメリカ大統領として現実世界へ踊りでで来る運命にあるわけです。この状況における大統領の交代は現実世界をどのように変えていくのでしょうか!?良くも悪くも強力なカンフル剤がなければ、現実世界は救いようの無い局面に来ています。それは日本の政治・政党も同じ運命の下にあるわけですが、まずは台風の目のアメリカに膨大な政治エネルギーを噴出してもらうしか手立てがありません。

この秋の旅行の間に数名のアメリカ人と話す機会がありました。それらの人々はすべてブッシュさんを強く非難していました。ならばぜひともオバマさんにと願うのかと言えば、そこはなかなか複雑なようです。おそらく人種差別が根強いからでしょう。

私は一貫してヒラリーさんを応援してきましたので、民主党という立場ではオバマさんに大統領として大きな挑戦をしてほしいと期待しています。しかしオバマさんがどんな政治手腕を発揮されるのか、日本との関係におけるスタンスなどなど全く予測がつきません。しかしその点については受けて立つ日本の政治家側に確固たるポジションがないので、どちらが大統領になっても同じかなぁとも感じています。それにアメリカ人ではないので映画スターのランキングのような超無責任なイメージ票でもありますが~。

しかし、ブラックジョークやユーモアを含めて、メディアを通して紹介される大統領選を闘う〈言葉〉の魅力には引かれ続けました。言葉は言霊です。信念です。だからこそ古来から多くの賢者の言葉を大切に受け継いできたのです。

日本の政治家はなぜ強くて、美しい言葉を発揮しないのでしょうか!?それは即ち強くて美しい心がないからではないでしょうか!?ありふれた記憶に残らない言葉の羅列、変な節まわしや、間違った表現(これは自分でお腹の底から考えていない証拠)。

これでは、老後世代も現役世代も、経済の危機に瀕している国民の不安が政治家には到底伝わるはずがありません。

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③中国にとっての香港

上海から香港へは陸路を選択。約二十時間をかけて移動しました!

上海駅から香港行き特快列車は厳重なセキュリティの中を出発します。ホームでの写真撮影も一切禁止。途中下車客のために4駅ほど停車しますが、ここでも下車客以外はホームに下りることができません。これではせっかく選んだ列車の旅が残念。

部屋は同行の父の従姉妹と二人用コンパートメント。クローゼットに二段ベッドとテーブルに椅子、そしてトイレと洗面室が付いて、エアコン、TV完備の清潔な室内です。テーブルの下には熱湯が入ったポット置きがあり、紙コップとティーバックなどを用意してきたのは大正解でした。食堂車へ出かけるときなどは、車掌さんに伝えて外からドアをロックしてもらうシステム。少し英語の話せる可憐な女性の車掌さんでした。まずは快適な旅ができそうで安堵。

列車が九龍に近づいてくるほどに”香港”という存在が、中華人民共和国にとっての特別行政区の意味合いを誰の目にも如実にしていきます。このことは大陸から列車移動をしたお陰で肌で感じることができました。

1997年に中国へ返還されたとは言え、香港は今後40年ほどの年月を中国共産党の制限下に置かれながらも、従来の自由港としての営みは続くはずだからです。というよりもイギリスの植民地として長年耕されてきた文化的風土を拭い去ることは、到底無理なのではと改めて感じさせられました。香港を傘下におきながら中国がどのようなせめぎ合いを呈していくのか、とても関心のあるところです。

九龍にある鉄道の終着駅からタクシーで香港での宿舎へ。最後の中国貨幣で支払った額は30元(香港ドル換算すると1~2割高)、およそ十分で到着。香港での滞在なら超おすすめが「サリスベリー YMCA オブ 香港」。以前に宿泊したときから大ファンに。

理由は目の前がビクトリア湾を挟んで香港島という好立地。なんといっても天下のペニンシュラと並んで建つていながら、良心的な適正価格と清潔でシンプルな客室にあります。高層階のハーバービューの部屋からは香港名物シンフォーニー・ライッ(毎晩夜8時から15分間、香港島と九龍を乱舞する光のイベント)が部屋にいながら堪能できます。そしてすぐそばから行き来しているスターフェリーも健在。いまでは海底トンネルを抜けてバスでも香港島に行けますが、なんといってもこのフェリーこそが香港旅情の主役。

YMCAは日本のツアーが利用してないために、フロントやコンシェルジュでの日本語対応はありません。しかし香港内やマカオへのツアーの手配や空港へのリムジンバスの予約など、迅速に、親切に対応してくれます。

このホテルからマカオツアーに参加しました。30名のニューヨーカーの団体に加えてヨーロッパやオーストラリア、そしてインドネシアのカップルと我々。総勢40名です。朝8時から夜8時まで12時間のバス旅行はとても楽しいものでした。”父の従姉妹です!”の紹介がよほど受けたのか、ガイドさんはその後何度も "father's cousin !"を連呼して車内を盛り上げました。

数名の人たちとはメールアドレスを交換するほど打ち解けました。オーストラリアの50代の中国系カップルは実はポルポト政権時代に亡命した方々でした。私は以前ウィーンでもベトナム経由でパリへ亡命したカンボジアの女性と出会っていましたので、この方々との出会いには不思議なめぐり合わせを感じました。

個人旅行であってもこのようなツアーに参加すると、世界中の人たちとの一期一会があり、ささやかなコミュニケーションの中から旅する楽しさを実感できます。マカオは13年前に行ったときとはすっかり変貌を遂げていました。まさにカジノの街です。マカオもまた中国にとってどんな存在と化していくのでしょうか!?

美しいレパレス・ベイの浜辺を、まだ10代のフィリッピン人のお手伝いさん二人に伴われて散歩する老齢の中国女性と会いました。なんと日本語で話しかけられたのです。幼いとき大連で日本人家族と親しくしていた頃覚えた日本語だそうです。年齢をお尋ねすると81歳。亡き母と同年齢でした。ただそれだけでうれしい出会いでした。

中国という広い国のたった3都市を巡っただけでしたが、自分の年齢と同じくらいの歴史の織り物に触れる旅となりました。それは青島への慕情が導いてくれたものでしょう。

人は物語を抱えて旅に出るべし、そう実感した次第です。

P.S.Hong Kong,

帰国便はキャセイ・パシフイックを利用しました。大好きな航空会社のひとつです。あの狭い九龍半島に乱降下するかのように着陸していた悪名高き啓徳空港が廃止になり、中国返還に合わせて新しく空港島に建設された香港国際空港の素晴らしさは世界でも数本の指に入ります。ヨーロッパやオーストラリアへのトランジット時に立ち寄る人も多く、香港の国際性の高さはこの空港にありきと感じました。

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②上海バンスキング

中国入りは上海からです。関西空港からならあっという間(2時間半くらい)に上海浦東空港に着きます。空港からは時速431KMを誇る上海トランスラビッドで街中へ。

まずは滞在先の弟のアパートメントに荷を解きました。このアパートメントは外国人専用のオール家具つきホテル式住居です。玄関にはコンシエルジュが24時間待機し、週3回メイドさんが訪れて、部屋の掃除やベッドメーキング、ミネラルウオーターのタンクの取替えなど、生活の基盤はすべてまかなってくれるそうです。

日本をはじめ諸外国から上海へ仕事で赴任しているビジネスマンは比較的単身赴任者が多いため、いま上海にはこのような豪華なアパートメント群が建つ一角が数ヶ所あります。住居面積は平均で150平方メートル。2寝室・2バスルームに広々としたリビングとキッチンです。インテリアも個性を競い合うかのように家具から壁面を飾る絵や照明器具、クッションまでがデザイン的にコーディネートされています。最も羨ましいと感じたのは居住者専用の設備。ライブラリー、フィットネス、プール、ビリヤード、カフェ&バー、そして理美容室です。これらはすべて住居費にインクルードされているのだとか。せいぜい赴任中はお楽しみください!とはまず弟に。

さて上海の街に繰り出して驚いたことは人の多さ。ちょうど10月の1週間は中国のゴールデェン・ウィークということもあってか、めぼしい観光スポットは人人の群れ。結婚式風景もよく目に付きました。ドラゴンの音高々とパーフォーマンスをする中国風や教会での欧州風など様々ですが、花嫁花婿の乗るリムジンには花々が散らされていて華やかです。

そんな雑踏の中を、車間距離はとらない、車線変更大好きな的士(タクシー)ドライバーの超ハイレベル?な運転に目を回しそうでした。彼らにはほぼ英語は通じないと思ったほうが無難です。行きたい場所の住所と名前を漢字で書いて見せること。地図で示すのもよいかもしれませんが、なかなかきめ細かいやりとりは困難です。

そしてもうひとつは空気が悪いこと。ある日の午前中、日本の森ビルが9月にオープンした高層ビルをショットに納めようと出かけたものの、ほとんどビルと同じグレー色に染まった大気に、展望台まで上るのを諦めました。気管支の弱い私は覿面に喉をやられてしまったのです。

そしてこのことを書くことは迷いましたが、観光地では五体に障害のある人がいざりながら物乞いをしていることです。若い人が多いのも不思議でした。社会主義国家なのに何故!?どんな風にして彼らは繁華街まで来ることが可能なのか!?超高層ビルが乱舞する中、胸を締め付けられる光景でした。

上海でのショッピングはなんといってもスリリングです。なぜなら値段があってないも同然だから。皆が行く「豫園」界隈の、いかにもまけてくれそうなスーベニールショップで購入した化粧ポーチが、最近のトレンドエリアの田子坊にある瀟洒なブティックではもっと安く手に入ったからです。普通は逆だろうにというのがこの街の意外なところなのです。欲しいものがあればあわてないで、十分にウインドーショッピングしてからをおすすめします。

蘇州へ行きたかったのですが日程に余裕がなかったため、上海から日帰りできる水郷の町「朱家角」へ行きました。バスで片道1時間ほどで到着。日本の柳川のような、想像力を逞しくすればベニスのようでもあり、楽しい一日を過ごしました。

熱いお茶ポット付きのテーブルを貸してくれるカフェのデッキチェアに腰を下ろし、川べりを縫うゴンドラ風&屋形船風の観光ボートを眺めながら、テイクアウトのチマキでのランチタイムはのどかで旅情溢れるひとときでした。

上海の街に戻って、夜のスケジュールはオールド・ジャズを聴くこと。大好きな舞台「上海バンスキング」を期待した私のこのプランには最初から反論していた弟。理由を聞くと「全く盛り上がらない演奏で、客はいないよ!」とのこと。楽しみにしてきた私は、しかしそれで引き下がることはできません。父たちが青島や上海でジャズを愛し、その系譜を感じさせてくれるはずである同年輩の中国の方々のジャズをどうしてもこの目と耳で確かめたかったからです。

しかし現実は弟の言葉どおりでした。客は前のほうに若い女性が二人。そして私たちだけ。これでは演奏する気分にはなれないでしょう!

しばらくするとその女性二人は立ち上がりました。弟が自信を持って「彼女たちは日本人だよ。あの若さで中国人なら絶対来ないはずだから」と断言したために、出ようとする二人を思わず私は呼び止めていました。そうして私たちのテーブルにやって来た二人は唐突に泣き出したのです。びっくりして理由を聞くと、彼女たちは法政大学のジャズ研のメンバーで、上海でもはや消え行く寸前にあるこのオールドジャズバンドへのとてつもない愛を抱いてここに来ていたのです。

彼女たちのジャズへの想いとたまさか私の中の上海ジャズ体験とは重なることができましたが、果たしてどれだけの人たちがこのオールドジャズの存続に興味を示すだろうかということです。まず現在の中国の人たちには難しいと思ったほうがよいでしょう。それなら日本人旅行者のうちどれだけの人たちが真剣に上海オールドジャズを愛せるでしょうか!?もうその年代の日本人は80歳を超えています。私の様に父の世代に薫陶を得た人間も還暦を過ぎました。

むしろ彼女たちのように若い世代が真摯な関心を持つしかないと思います。帰国し、彼女はこのことを論文にすると言っていました。書きあげたら読ませてくださるそうです。

私にも同じようなことをしている娘がいます。テーマは歌舞伎や浄瑠璃の研究ですが、古きものをきちんと遺していきたいという情熱には相通じるものがあるからです。

彼女たちがどのような視点で論文に仕上げるのかいまから楽しみです。ただし上海が戦前に置かれてきた特有の立場を十分に理解して書く必要があるように思います。音楽性からのみのアプローチでは、複合的で陰影のある歴史を持つ上海のジャズを描ききれないからです。

そしてそれがいつの日にか上海の人々の情緒性を耕すことに一役買うことができれば素晴らしいと思います。なぜなら短い旅人の表層的な目には、今の上海の壮絶な混沌の中では、人々は他者を顧みず、とりわけ経済という光線が猛スピードで交錯しているように見えるからです。

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中国三都物語①青島詣で

9月末から約2週間、かねてより計画していた中国へ行ってきました。

目的は山東省にある青島(チンタオ)を訪ねることでした。2008年北京オリンピックでヨットレース会場となったあの海辺の街です。幾つもある美しいビーチでは、10月に入っても泳いでいる人や日光浴をしている人たちの姿がありました。

人口は700万ほど。中国屈指の軍港のある街でもあり、現在青島に住む外国人は韓国人が一番多く、約7万人が居住しているそうです。

この街には戦前のドイツ租界がそのままのこっています。そして父が育った街です。亡くなる前にもう一度青島へと切望していた父の望郷の想いを、18年の歳月を経てやっと達成しました。それは父の部屋に飾られていた1枚の絵に誘われた旅といってもよいでしょう。

その絵は生前父がまだ日中国交復興前に中国を旅行した折、招待を受けた中国の友人から贈られたものです。青島で祖父母や父が住んでいた界隈が描かれていました。

それはまるでドイツの街そのもの、その絵のシンボルとなっているのがドイツ風のエメラルドグリーンの尖塔を持つ基督教教会でした。その教会のあるエリアに父が住んでいた洋館はあったようです。

教会は意外とズムーズに見つけることができました。描かれた場所が特定しやすかったからです。信号山公園から見渡すチンタオ桟橋の向こうに新しいビル郡が見えることを除けば、絵と実際の眺望とはピタッと重なりあいました。

翌日は教会を皮切りにその辺りを散策しました。教会は街の丘の杜の中に建つランドマークの迎賓館と同じく、独特なデザインのドイツ様式で建てられたメルヘンチックで、個性的な建造物です。

青島の旧市街地は1898年にドイツのモデル植民地として上下水道が完備され、街路樹が植えられました。その後1938年ごろから多くの日本人が住んだ場所です。そのことは戦争の歴史の証明でもあります。いまや中国国営No1(AAAA)企業として世界進出にめざましい青島ビールの工場ミュージアムに行くと、ドイツ人が始めたビール生産の技術がその後日本の企業に受け継がれて、いま中国に確固として在ることがわかります。

外国からの入植体験のない日本はいい意味でも、悪い意味でも純粋培養ですが、この街を歩きながら、中国に”欧州の香り”があることはそんなに悪くないなぁと、ついつい呑気な旅人は旅情に流されるのでした。

青島の街中には、いまでもそのまま中国の企業が使用している元日本企業だったビルがあります。旧日本大連汽船址、旧三井物産や三菱銀行址などです。

いま中国の方々がこの街にどんな気持で住んでいらっしゃるのかは想像できませんが、広い道路やロータリー、石畳がそのまま各戸の石垣に繋がっていくような大きな家々には、数本の煙突が立っています。築後どんなに浅い家でもゆうに70年以上は経過しているはず。保存地区として景観が維持されているせいでしょうか、いまでも見事に美しい街並みを呈していました。

通りを歩くと見上げる洋館の高い窓から、向こう三軒両隣に住んでいたと言う中村八大さん兄弟や石丸寛さんと父たちの弾く楽器の音が聞こえてくるようでした。この街こそが父のコスモポリタンな個性を育んだことを納得しました。ちなみに父たちが通う小学校の校長先生は中村八大さんのお父さんだったそうです。

青島ビールのロゴマークにもなっている美しい青島桟橋から、父が愛用していたシルクのスカーフを小船のようにこんもりと結んで海に流しました。やっと父を懐かしい海に帰してあげることが叶いました。

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