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1Q84

まずは久しぶりにその隠喩、比喩のシャワーを浴びて、記憶の中の村上ブランドに装いを整え、案内された座席に座り、車窓の景色を眺め、車内販売の珈琲やサンドイッチ、アイスクリームなども食している自分の姿が現れるまでには、さほどの時間は要しませんでした。

1Q84の舞台にはヴァイオリンとチェロのソロ奏者が二人。その背景には、村上春樹氏が検証し尽した”あの”出来事がオーケストラーのように配置されていて、黒服のマエストロが感覚の赴くままにそのタクトを振り降ろしました。一体どんなシンフォニーが奏でられるのか!?そんな風に、行き先の想像もつかないまま「1Q84」上巻を読み始めたのです。

チェロ奏者は数学が得意です。一方ヴァイオリン奏者の方はフィジカル・エクササイズに関するスペシャリストです。この二人の奏者は個別の音楽を奏でながら、お互いの弦をみごとに共鳴させてシンクロナイズしていきます。この構成は実はとてもシンプルで、物語の中に読者を自然に引き込んでいくパワーがあります。そしてテーマをスクリーンに浮かび上がらせていきます。そう、月が二つある世界へと。

この物語で差し出されようとしているものには、あらゆるものごとを包括する御しがたい大きな力と、外からコントロールすることのできない唯一無二のものの存在、その両方を感じました。二人のソロ奏者が、それぞれの章立ての中で遭遇する出来事には比類なき事態がガラス細工のように嵌め込まれています。そこから零れ落ちてくる数え切れないほどのガラスの破片(言葉の数々)、例えば、『過去を書き換えると当然現在も変わる』『なぜなら、あなたのそういうあり方自体が、言うなれば宗教そのもの』『心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。・・・』『意味を持つ風景』」、そして『均衡そのものが善』等などに触発されます。

どちらかといえば、私は物語全体というよりは、そのひとつひとつを完結した「短編」であるかのように十分に楽しみました。そしてひとしきり、10歳の頃の自分自身を思い出そうとしました。

というわけで『1Q84』について、ここではテーマや物語の展開、帰結に関してつまびらかに言及はしたくありません。というより村上氏がこの作品を通して訴える!?命題に、私自身の論理性がついていけない部分があるというのが正直なところです。ある意味で怪書だからです。

それでいて、切なさや不確定なものを遺しながらも、ある種のデジャ・ビュと懐かしさ、優しささえもが醸し出される不思議を感じています。そして私自身にとっても、『1Q84』が脳裏にビシッと記憶されたような感覚があります。きっと世界は、あらゆる事象は、そして人間が存在していくということは、こういうことなのだろうという、確信のようなものです。

一風変わったタイトルの、巷の話題を集めている長編小説についての個人的な感想文です。難解らしいと、食わず嫌いになる人がいないことを祈ります。なぜなら難解どころか、むしろ村上作品にしては平易であり、このような表現方法以外に、ここにあるテーマを、偏らず、手抜きせず、むしろ、ある種寛容(ファンタジーに)に描く手法があるのだろうかとさえ思えるからです。

★途中放棄しようかなぁと考え始めている人、大丈夫。ゴールまで走り抜こう!

☆まだ棚に積んでいる人、先に誰かに読ませよう!

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ちいさな生き物たち

早朝のベランダには、鉢植えの花の蜜を吸う蜂が2匹。すでに蝉の声は日々その数を増やしています。

部屋の主がカーテンを開けると、いち早く動き出すのは金魚鉢の中の2匹の金魚たち。すでに水面に垂直になり、口をパクパクしはじめています。夏の朝はなんと気持のよいこと。

ブログを書いて、英語のリーディングを少しして、読みかけの本を4章ほど読むことに。朝食はいつもそれからになります。こんな風にはじまる午前中の数時間が私にとって至福の時間。ちなみに読みかけの本は4章などと規則にこだわらず、次をよみたくなるところで小休止がコツです。分厚いものは特に。

最近孫の影響でしょうか。昆虫に興味が湧いています。絵本や図鑑もよく観ます。ファーブルの昆虫記も幼児向きのものがあれば、そろそろ読んでやりたいと考えているところです。昆虫学者の姿は「好きなことに熱中している」様子を、子どもに伝える素晴らしいモデルになるからです。5歳の子どもには、好きなこと、夢中になれることの素晴らしさを体感し、記憶させておきたいと思います。

私は多分5歳の頃、家に家事見習いに来ていた15歳くらいの少女と二人でちょっとした里山で遭難したことがあります。結果として夜になっても家に帰らなかったので、家人や近隣の人たちが捜索し、見つけてもらったのですが、そのときのことが理由でその少女は実家に帰されたという悲しい記憶があります。

おそらく二人でウキウキと、木々や昆虫や、川の流れや、山肌と遊びながら流れていった時間だったはずです。そのときの記憶は具体的ではないのですが、身体の奥底に風や土や木々の匂いとしてしっかり住み着いているのを感じます。その対極には共に素晴らしい体験をした大切な人を失ったという喪失感が付き纏い、全体としては何十年も経たいまでもどこかで小さな痛みが伴うのです。

人の記憶は何歳頃から具体的になるのかなぁと考えてみると、突出した1シーンとして鮮明に覚えていることはかなり幼い頃からあるように感じます。たとえばその遭難事件の夜、私は大きなブリキのバケツに足をつけられて、足を洗ってもらったこと。えんじ色に白い水玉のサッカー生地のワンピースを着ていて、それは肩紐を前後ろで結ぶデザインだったこと。15歳の少女は白いブラウスとズボン姿で、かなり長い三つ編みだったことなどははっきり覚えているのです。

5歳までのこどもは可愛いです。しかし大人は幾分気をつけたほうがよいでしょう。彼ら見かけとは全く異なります。あることは映像で、あることは言葉で、またあることは波動で、もっとあることは無意識下で、とてつもなくさまざまなことを記憶し、大人になったときにそれらを呼び覚ます能力を持っています。

*8月13日金魚が一匹亡くなりました。

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一歩踏み出せない理由

どうしても一歩前へ行けないときがあります。そんなときはまず、自分をロックしている鍵の種類を探しに行くのが最初の一歩です。

自分の部屋のドアのそばにはいくつもの鍵が並んでいます。「プライドという鍵」、「恐れというカギ」、「不安という鍵」、「怠慢という鍵」、中でも最も恐るべしは「現状維持志向という鍵」。一見は他の鍵となんら変わりはないのですが、金属は錆び付いてボロボロになっていて、もしかしたら鍵穴に入れる前に跡形もなく崩れてしまうかもしれません。そしてそれらのどれもが自分の部屋の扉にロックをかけています。

部屋が御しがたい力、洪水のようなもので押し流されたなら、すべての鍵はなんの用も足しません。扉は跡形もなく破壊されるからです。しかしそうでない場合、どんな部屋にも頑強な扉があり、その鍵穴はなんらかの鍵でビシッと閉ざされています。

せめて自分の部屋の鍵の束を自由に使って、たまには部屋の風通しを良くしたいものです。

そのためのよい方法がひとつあります。どんな種類の鍵よりも万能な鍵を持つことです。その鍵には、多分「勇気」という銘が刻んであります。スイス製ではありませんが、かたちが素敵で、心地よい重さがあって、よく磨かれています。その鍵を掌中にするだけで、エネルギーの質がぐんぐん上がります。子どものように純粋になります。

さて私も、今日もなにかひとつ、勇気ある行動をすることに!

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自らを語るということ

数ヶ月ぶりに市内の公立病院に行きました。この数年、口伝えもさることながら、その衰退ぶりはまず目に見える印象にあらわになっていました。

やる気のなさ、情熱のなさ、どこかが空洞化している様子。それらは顕著にその表情に出るからです。

しかし待合室の雰囲気が何か変化していました。椅子が新調され、カフェのような丸テーブルも配置されていました。ふとそのコーナーの壁面に目を移すと、ずらりと病院の質を掲げてあるではありませんか。つまりあらゆる医学学会の認定証などがラインナップされています。

その中でまず私の目に飛び込んできたのが、長い更年期医療活動の中で、すでに10年以上も前から私たちが海外の視点で問題視していた「マンモグラフィ」認定医のライセンス。女性の乳癌の発見に効力のあるマンモグラフィ検査はここ数年、やっと日本女性のために整備されてきましたが、最近もニュースになっていたように、いくらそのための機械が普及し、受診率が上がっても、その所見を観る専門医(ラジオロジスト)が育成されていなければ、何の役にも立たないのです。

各専門機関の認定医制度は今後ますます充実していく必要があります。そのライセンスの宛名の99%は病院名ですが、医師個人の業績ももっと掲げていく必要があると感じました。個人のクリニックでなくとも、ここにはこのように優秀な医師がいるのだとアピールすることは、受け手にとってとても役立つ情報だからです。

また医師同士も切磋琢磨する刺激剤になるはずです。現に今回医師の言動に明確な違いがありました。それまでは医師の全くやる気のない返答が目に付いていましたが、あきらかにコミュニケーション能力がアップしていたのです。診察室が息づいていました!

長い間公的な場所では平等意識がはびこり、競争意識はむしろタブーでした。しかしそのタブーは何のためだったのか、そのことで一体どんなよい結果が生まれたのか!?今、そんな感覚を問い直したほうがよい面が社会のあらゆるところに噴出しています。

何事も語らないより、語るべきなのです。「私はこういうものです」と明言することからすべてははじまります。情報が開示されてはじめて、そのことについて語り合うことが可能だからです。コマーシャル化の行き過ぎは不信に繋がりますが、顔に目も鼻も口もなければ、その表情を感じ取ることもできません。表情が見えないものを信用するのはもっと難しいです。

やっとこさ、その公立病院はパーソナリティーを発信し始めたところですが、市民としては期待していきたいと思います。

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今日はワークショップ

年に3回、多くの人にセルフコーチングのセンスを身につけてもらうことを目的にはじめました。今日はその10回目です。ワークの構成は「自己基盤」を強くすることと、「コミュニケーション能力」を磨くことです。

どんな職業で人生を生きようとする人も、主婦としてのみ生きる人も、親になる人も、ならない人も、社会的に生きるすべての人にとって、この2つのことは必須だからです。そしてこれ等は共にリンクしています。この双璧の上にあってはじめて、あらゆる専門知識やスキル、そしてノウハウが功を奏すのです。

2009年の自己基盤の年間ワークコンセプトは「自己認識」→「セルフイメージを確認する」としました。そのせいか、3月のワークⅠから参加者の中心年齢が30代になっています。これは注目すべき傾向です。しかしコーチングワークショプはどの年代にも気付きがあります。なぜならコーチングセンスを身につけることによって、自己への客観的で多面的な視点を持つことが可能だからです。

人は幼児期を過ぎた頃から、無意識のうちに他者へも自分自身へも固定化されたイメージを創り上げていきます。我が家の5歳の孫でさえも、すでに自意識はしっかり芽生えていて、周りにいる人間を個別化しています。また彼を取り巻く大人たちも、大人の目線で、すでに5歳のこどもを個性化しているのです。

そんな風にして成長する私たちは、30代ともなれば自分に対する思い込みの強さは岩のように硬くなっているはず。でも人はいくつになっても変化し続ける生き物です。このようなワークショップで、他者からの適切な視点を得ることは変化へのよい機会になります。

今回はイタリア人女性の参加があり、ロールプレイパートナーには米国へ留学経験のある男性にお願いしました。偶然にもお二人は共に音楽家。職業的にも、自分自身の「価値」に近いところで生活をしている方々かも知れません。人は自分の中にある「本質」を知り、その価値観を体現した生活が出来ることが理想です。

テーマは自分の「ニーズ」を把握すること。「ニーズ」はそのまま日本語にすると現実生活におけるさまざまな「必要性」ということになります。もっといえば欲望、野望なども包括します。「ニーズ」があるからこそ、人はそれを得るために行動し、成長するのです。「ニーズ」を十分に満たすことはとても大切です。しかしあまりにも自分自身を偏った方向へ突き動かすような「ニーズ」、満たすことで安心するより、疲弊してしまうような「ニーズ」に関しては、その出所(ルーツ)を明確にし、きちんとコントロールできることが望ましいのです。

コーチングにおける自己基盤を強くするスキルの中でも、「ニーズ」はその概念が難しく、掘り下げるほどに哲学的です。なぜなら「ニーズ」は生きることそのものの代名詞だからです。だからこそ自身の「ニーズ」を自覚することは、また自身の「真の価値」を知るための必要不可欠な道程でもあります。ニーズの中に価値があり、価値からニーズが派生するとも言えます。

ワークショップというかたちでのディスカッションは、毎回意義深い展開となります。30代、40代の方々が真摯に参加してくださるのはとてもうれしいことです。自分自身について考えるチャンスにして欲しいからです。

反面50代~60代くらいの年齢層になると、個人差はありますが、現在の自分自身を揺さぶりたくないという保身が目立ってきます。今回参加された50代の女性からも、ホロリと、あまり自分自身を突き詰めたくない気がするという声が漏れました。それで日々が恙無く、楽しく過ぎているなら、それもよし。しかし人生は更年期からだとしたら、まだまだそこに留まるには早いかもしれませんね!?

自分について、自分の本質について「考える」ことは、死ぬまで続くことのように思います。そのことが即ち人生だからです。

そして、かの「論語」に『六十而耳順』という孔子の言葉があります。60歳にもなると異なる考えも素直に聞き入れられるようになるという意味です。そのための最良の方法は人の話を虚心坦懐に聴くこと。初めて聞く音の響きを楽しむ、柔軟さと、快活さこそ、精神の若さの証。更年期以後には、そのようなコミュニケーションの達人になりたいものです。

年齢を重ねていくことの素晴らしさとは、寛容さ、そして精神の豊かさですから。

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